マウントフジフラワーエッセンス 基礎大阪集中講座 体験談
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〜マウントフジフラワーエッセンス基礎大阪集中講座を受講して〜
匿名希望
掲載日: 2005年 2月 2日 


今までいろいろなフラワーエッセンスを使ってきましたが、ずっと前からマウントフジフラワーエッセンスには惹かれていました。小さい頃から身近に咲くお花たちなのでとても親しみを感じていたのです。でもなかなか受講することができませんでした。今回受けようと決意したものの、正式予約をする段になって躊躇しているうちに、結局満員になってしまいました。キャンセル待ちしても空くことはないだろうと思っていたのに、なぜかキャンセルがでて迷った末「マウントフジフラワーエッセンス基礎大阪集中講座」の受講を決めました。
「マウントフジフラワーエッセンス基礎大阪集中講座」を受講する頃の私は、10年勤めている今の職場での仕事に疲れはてていました。3年前には主に仕事のストレスが原因でうつ状態になってかなりつらい日々を過ごしました。それを越えて前よりはいい状態になっていたものの、以前の私の調子に戻るにはまだあと少しかなというところでした。長年のストレスで身体もかなり疲れていました。もう限界だと何度も思いながら転職する元気さえもなく消耗し続け、動けずにいました。表面上は落ち着いて見えても、心は騒がしく漂っていて着地することを求めていました。

そして基礎講座で最初に選んだボトルが「アカツメクサ」でした。ハッとしました。基礎講座にでるために友人の家に泊まっていた私は、共通の趣味であるシャドウボックスを前の日に作りました。2つめを作るために新しい図案を選んでいる時に目に止まったのが、アカツメグサのフェアリーの絵でした。それを見ているとやさしい気持ちになりました。「アカツメクサ」<安定、グラウンディング>なによりも私に今、真っ先に必要なエッセンスでした。

受講会場では最初から人と距離を置いていました。接したい気持ちもありながら、ひとりでいることの方がしっくりときていました。拒否というよりは、無理したくない。群れたくないという感じでした。少し人と話したり、ひとりでぼーっとしたりしている自分が自然な感じがしました。その反面あせりも感じていました。うつの流れから、しばらくの間なるべくひとりで静かに休養してきましたが、少しずつ人との交流を求めはじめた時期でもありました。だから、この基礎講座中は変に気をつかったり、あせったりせずなるべく自分のペースでいてみようと思いました。
そんな私に「オダマキ」<人間関係の輪を広げる>や「アメリカセンダングサ」<再生>がやってきてくれたのは自然な流れでしょう。基礎講座終了後、1ヶ月位してから、しばらく会っていない友人からメールがきたり、街でばったり会ったり、しばらく前から急に気になってどうしてるのかなあと思っていた人から数年ぶりに連絡があったりしました。長い巣篭もりの時期を経て、落ち着いた気持ちで人と交流する時期が来たのだと感じました。

また、その頃は霊的なものに対しての拒否感もかなりありました。昔からそうだったのではなく、数ヶ月前の出来事がかなり影響していました。友人達とある事を習っていたのですが段階的に物事が起こった末、その先生と決別しました。その決別については起こるべくして起こったという感じが強く何の後悔もなくかえってよかったのですが、友人達も私も怒りとショックが大きく残っていました。それから私はひとりで瞑想をしようとすると怖れを感じるようになり、瞑想できなくなっていました。気をつけていたつもりなのにいまだに霊的なものに対する無防備さを思い知らされ、人をみる目の甘さを思い知らされ、そして自分の感覚をキャッチし信じることの大切さを思い知らされました。今回受講する人の中に霊的なものを感じるのが強い人がいて、自分の中で強い拒否反応が起こっていました。その人が嫌というのではなく、私の霊的なものに対する怖れが再び湧き出てきていました。基礎講座中はその怖れに振り回され、その人を避け、そんな自分を責めるような気持ちもでてきてとても苦しかったです。
「リンドウ」<痛みを取り除く、素直な自分を表現する>がサポートしてくれたのでしょうか、基礎講座終了後、部屋を片付けていたら1枚の誘導瞑想のCDがでてきました。何年も忘れ去られていたCDは、あるセラピーを元としたもので過去を手放すレットゴーのワークが入っていました。時間も短く、誘導ならできるかもしれないと思いやってみました。納得できるまで繰り返しました。
今はあの出来事に対する怖れや悔しさ、霊的なものに対する大きな拒否感は感じません。もっと自分の感じていることに注意深く気づくこと、その感覚を受け入れることを大切に育てていきたいと強く思います。それにはその時感じている自分の感情を止めたり否定したり、目をそらしたりするのではなく、それを一旦よく感じ認め受け入れること。それが否定的な感情であればあるほど、そうすることが必要になってくるのだと感じました。そうすることで、その感情はそこにとどまらずに流れていくのだと。そして必要な時は直接、気持ちを感情にのせて伝えること。ぶつかることを怖れずに言わなければならない時もあるのだということ。

11月。
 このことを実感したもうひとつの出来事がありました。過去のことではなく、目の前で起こることでもう一度私にそのことを念押ししたかのような出来事でした。
ある人から完全な思い込みによる見当違いの誤解を受け、その人はメールでそのことを私に伝えてきました。それを読んだ時ぼーぜんとし、どうしたらこんな思い違いができるのかと思いながら、一気に悔しさと落ち込みがやってきました。脱力感。すぐに誤解を解くためメールを送ろうかと思いましたが、思い直して受話器を手にしました。電話が苦手な私でしたが、直接話さねばと思ったのです。ハッキリと誤解だと言うことを話しわかってもらいましたが、電話を切って気づいてみると誤解に対する謝りの言葉はありませんでした。キチンといいたいことを言えたことはうれしかったが釈然としない気持ちも残りました。しばらくの間落ち込みそうだと思ったけれど、予想に反して電話した4時間後には落ち込みが一気に怒りに変ったことで落ち込みからは抜けました。変かもしれないけれど落ち込みから怒りに切り替わった瞬間カチッと音がしたように感じました。
普段なら否定的感情が出てきた時瞬間的に抑えるのですが、今この時は思い切り自分の感じていることを言葉やからだを使って表現しようと思いました。ちょうど休日だったのでその日はひとりで、眠る時まで沸々と湧いてくる怒りや悔しさを表現し続けました。
その夜夢を見ました。私が私の中にためていた言いたい事を次々と、言いたい人達に言っている夢。我慢してきたこと、自分の感情、感じたことをまっすぐにしっかりと話しています。総出演の中、大爆発。泣きながら目が覚めました。半眠半覚の状態で泣いている時、胸のところがスーッと気持ちよく通っていくのを感じていました。とても気持ちがよくてその感覚は起きてからしばらくしても残っていました。起きてその日の夕方まで残りかすのように前日の怒りがでてきていましたが、急にプツリとなくなりました。まるで大きな嵐のようでした。その後はすっきりとして清々しかったです。
「リンドウ」とともに、「ナギナタコウジュ」<境界線>がサポートしてくれたのでしょうか。頼られてしまった結果、被害者になってしまうパターンのある人とはまさに私のこと。人に利用されやすくしかもそれに気づくのが遅い自分にいつも後からガックリきていました。そして自分の感情や思いを閉じ込めてしまい辛くなってしまうというパターン。自分を尊重すること、いい意味での人との境界線を作ることにもっと気づいていられたらと思います。

12月。
仕事帰りに怪我をしてしまいました。自転車ならいつもは通らない道をいつもは通らない時間に通り、いつもだったら転ばないぐらいの状況で転んだのです。最初は何が起きたかわからず、怪我をしたことにもしばらく気づきませんでした。顔を手で触れた血の感触で気づきやっと痛みを感じました。顔がひどく切れていました。痕は残らないかショックが大きかったです。溝に落ちた鞄の中で、エッセンスのボトルは濡れてもいませんでした。エッセンスを飲みました。少し落ち着きました。
疲れのため、頭も心も身体もあらゆる機能が鈍っていたのだと思います。自分が思っている以上に疲れていました。"休みなさい!!"というメッセージだと思いました。10年以上医者にかかっていなかったのに、病院嫌いの私が消毒のためしばらく毎日通院することになろうとは・・・。ちょうど翌日から3日間仕事が休みでした。翌日消毒にいって処置してもらっている間、涙がでそうになりました。とてもやさしく扱ってもらっているように感じて、そのやさしさにそしてずっと無理してしまい私が私を大事にしてなくてごめんという気持ちからの涙。その3日間の休みは、ここ数年の内で一番本当の意味で休養できました。怪我をしてやっと自分で自分に休んでもいいんだよと許可がだせたのです。子供の頃過ごしたお正月のように、静かで時間がゆったりと流れていきました。私の中もしーんと静まっていて1日1日がとても長く豊かで満たされた時間でした。
今までの私は、私自身に休むことを許していませんでした。休んでいてもいつも精神的に何かに追われていたような気がします。仕事でもプライベートでも。
それは習う、学ぶというところにも現れていて主にオイルマッサージなどの分野で今まで次々と講座を受け続けてきました。そのこと自体は悪くないのですが、今回気づいたのは、不安からどこか脅迫観念的に自分で自分を追い立てていたということ。最初の頃の気持ちを忘れ、いつからかあせりの気持ちが私を動かしていました。そのうち、視野が狭くなり自分の中にもゆとりやゆるみがない状態にまでなっていたのだと思いました。自分にゆとりがないとできないとわかっていながら自分自身に休養が必要だと感じていながら坂をころがるボールのように走り続け、怪我でもしなければその勢いを止められなくなっていたのだと思います。止まってはいけない、走り続けなくてはダメだ・・・でも苦しい休みたい・・・どこに向かってるんだろう・・・と。

1月。
春に、ある試験を受ける予定にしていたのですが、静かに内側を感じてみると頭は今回受けないと遅れをとると云っていて、でも身体は今は動きたくないと断固拒否しているのです。逃げの気持ちからでているのかもしれないとか、でもからだは疲れ果てているのは確かだしと相反する思いにイライラしつつ、ある日ふと、もういいや、あせってやるよりじっくりと準備してからでも遅くない、今回は受けないと決めたとたんに気持ちもからだもスーッと軽くなり、すごい解放感を感じました。
 その後すぐに、気になりながらもずっと休止していたニュースレターを再び出そうと思い、なんと2日で書き上げました。今まで書こうとしてもなかなかまとまらず再開できなかったのに、不思議なものです。少しずつゆるんできたのか昔やっていた洋裁を急に始めたくなったり、今まで習ってきたことをまとめたくなったりして、少しずつ他のことにも目が向くようになっています。そうなってくると不思議なことに、ずっと前から友人に開業すればいいのにと言われ続け、それに対して私はまだまだ早いし勉強不足と抵抗していたことに関してあまり抵抗感がなくなり、少しずつゆっくりでいいからやってみようという気にさえなっている自分に驚いています。ただし少し休養して自分が充電してからですが・・・。
「イタドリ」<リーダー的先駆者>と「ウワズミザクラ」<軽さと広がり>そして「ヤマツツジ」<与えること>が後押ししてくれたのかもしれません。臆病で慎重すぎていつまでも一歩を踏み出せない私に向かって、いい意味で気楽に行こうよと言ってくれているように感じます。
また、テーマを決めてボトルを選んだときに、私が決めたテーマは「達成できない自分を超える」。選ばれたのは「ハハコグサ」。最初、ピンとこなかったけど子供の時よく母に言われていた「どうせ始めても続かないのだから・・・」。その言葉を聞くと、弾んでいた気持ちがシュンとなり悲しくなったのを思い出しました。実際、続かなかったこともあるけれどやり遂げたこともあったのに、私自身も出来なかった事の方が自分の中に印象強く残っています。続かなかったことの方を数え上げて、出来ないと思い込んでる自分がいました。あの頃は少しでいいから母に応援して欲しかったんだと感じました。そんなところからも転がるボールの焦りは関係あるのかもしれません。
坂を転がるボールに気づいたとたんに結婚に関しても思いこみがあることに気づきました。あまりにも古臭い思い込みで苦笑してしまうのですが、結婚したら自由がなくなるからやりたいことは今やっておかなくてはならないとか、手に職をつけておけば何かの時に困らないはずだなどと心の奥で根強い思い込み。結婚を望みながら、心の奥では結婚を恐れていました。彼に結婚を申し込まれたらどうしようと恐れていたし、結婚の話題も避けていることにも気づいていましたが、一体どこでこういう風に思い込みそしてなぜ今までその考えに気づかずにあるいは気づかないふりをしてずっとそれを持ち続けてきたんだろうと思いました。結婚の考えに関しても少し気持ちがスッキリしました。
そうしているとスーパーで彼と買い物している時に、元彼がいるのを見つけました。もう会いたくも顔も見たくもない人だったので一瞬動揺しました。とっさに会わないようにやり過ごしました。怖かったです。彼と元彼は全く違うとわかっていながら、今の彼も実は元彼のような人だったらどうしようという考えが頭の片隅でくすぶりながら今に至っていたのですが、2人を同時に目の前に見たことでその思いがあっけなくふっと消えて楽になりました。

基礎講座の実習で男性性と女性性のワークの時にでてきたのは、男性がミロというひょろっとした少年。ヨーロッパあたりの都市に住んでいて気弱で自信がなく外の世界を少し怖がっています。でも憧れてもいて、もっと強くなりたいし、色々な経験を積みたいと思っています。
女性はユイという片田舎の娘。しっかりしたお姉さんという感じです。よく働き明朗快活で世話好きで暮らしも悪くはありません。時々丘の上に座り、ぼんやりと遠くを見ています。街や別の世界への興味と今の場所での落ち着いた暮らしも好きでそのふたつの真ん中でぼんやりしています。憂鬱ではないけれど何か物足りなさを感じています。頼りない弟としっかりもののお姉さんという感じのふたりです。その時の自分の内面そのものです。ふたりが出会うと、男性はしっかりした青年に変化し、女性は目の光が強くなり目がキラキラしました。そして花びらのようにひらりとやわらかく光にとけあって、ひとつになりハートに戻っていきました。

仕事の面でも周囲でひと波乱あり、そのおかげでずっと閉じ込めていた思いや感情を上司にゆっくりと話す機会ができて、話したことでかなり楽になりました。長年抑えていたものを一気に吐き出したせいかその夜胃が痛くなりました。こり固まっていた胃が急にほぐれたからかなと感じました。前は自分の感情や思いを長い間押さえつけていたために、どこから話していいのかさえわからなかったのですが今回はかなり話すことができたと感じています。前のように自分の中で感情を押さえつけず受け入れ感じることができるようになったため、外に向けての表現も抵抗なくできるようになったのだと思います。いまだに思い出したように否定的感情が出てきたりしますが、こんなに閉じ込めていたんだ、こんなにいっぱい感じていたんだ、こんなにも強い感情があったんだと・・と今は受けいれられます。それを適度に表現することも少しずつですができつつあります。素直な自分を表現しても大丈夫だよと「ハハコグサ」<母の愛>や「ナギナタコウジュ」が励ましてくれていうようです。
そして最近、感情については象徴的な夢が多くを教えてくれています。今まで感情面では発散型の夢が多かったのですが、なぜ怒りを手放したいのにできないのか、なぜ素直になれないのか・・・夢の中で感じ考え自分なりの答えを見つけている自分がいます。

感情に焦点が当てられて感情の大掃除のような日々でした。感情は大きなエネルギーだと実感しました。それをどう使うかは自分次第。感情を抑えて引きとめ知らん振りをしているとそれはおもりになり、自分がどんどん沈んでいき身動きできなくなります。感情を感じ受け入れそのつど適度に流していけばそれは前に進む推進力になります。
感情がストレートにからだにくる事も改めて強く実感しました。怒りを中途半端に抑えると肩や首が痛いほどこわばり腰もこるし、最初から怒りを封じ込めると胃にくるし、悲しみや涙を抑えると胸がつまったり痛んだり頭痛がしたり、怒りすぎると頭がふらふらし、ひどく落ち込むとからだがずっしりと重くなり、我慢が続くと息苦しくなるし、背骨の周辺がこわばってきます。喜びすぎても怒りすぎても眠れません。私の場合、怒りを表現しにくいようで、怒りを抑えていると悲しみに変っていきます。
からだを大切にするには、感情も大切にすることです。感情を大切に扱えば、からだは楽になるのだと感じました。

講座中は雑念だらけで、ちゃんとボトルを選べているのかと不安でしたが、ミックス用にチャクラ別に選んだ9本はもちろん、ミックスには入れなかったけどいい感じがしてチェックしたものも自分に必要なものであったと今実感しています。
ペアワークの時の話や休み時間に他の受講生と話した雑談の中にも、私にとっては励ましや勇気づけになるものがありました。笑顔やその場にいることでほっとさせてくれた人たちもいました。
講師の方、一緒に受講したみなさん、ありがとうございました。

あまりに多くのことが短期間に起こったので、いまだに整理できていない感じもありますが、それも少しずつ落ち着いていけばいいと思っています。気づきが芋づる式にでてきたり連鎖反応のように物事が起こったりしました。泣いたり怒ったり転んだり落ち込んだり、時にふっと軽くなったり・・・ころころ心が忙しくて苦しかったけど貴重な体験、時間でした。